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Lico_citrus's novels

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 僕は祖母の隣に立ってみた。
 見ると、その吹きさらしの踊り場からは、
駅の構内全体が、とてもクリアに見渡せるということを、
その時僕は初めて知った。
 そして、こちらから言うと一番手前ホームの大阪寄りの位置に、
六十才前後くらいだろうか、
少し白髪混じりの初老の男の人が一人、立っているのが見えた。
その、少し背をかがませて、くたびれた鞄を両手で握って持つ、
不器用そうな面持ちの男性は、
仏間にある写真の中の、若い祖父が持つ空気感に、
なんだか非常によく似ているように見えた。
 祖母はその人のことを、何も言わずに見ていた。
 そうして電車は入ってきた。
電車のドアは、まるで用意されたように彼の目の前で止まり、
見守る祖母に気付く様子も無く、背中を丸めたまま、
物静かに車中に乗り込んでいった。
「七時三分発急行難波行き、只今発車いたします」
駅員のアナウンスの声とともに電車は動き出し、
そしてそれは徐々に速度を増して、そのうち風になって消えていった。
 一瞬、おとなしいホームがそこに残った。
 祖母は少しの間、からっぽの構内を眺めていたが、そのうち黙って階段を下り始めた。
 僕も黙って、付いて戻った。
 丸めた肩と、小さな背丈が目の前を行く。
僕はいつ頃、彼女の身長を追い越したのだろう。
 僕らはまた、元来た通りの道を、とぼとぼ歩き出した、
 背中側から遠くに、踏切の音が聞こえる。
 さっき僕たちが居た場所に向かって、自転車をこぐ学生服とすれちがう。
 そうして自宅に到着する、最後の角を折れた時、
「おなかすいたね」
と祖母は言った。
「そうだね」
僕は答えた。
 視界に入ってきた我が家の瓦屋根に、ほんのり朝もやがかかって、
いつもと同じはずの景色がとてもキラキラして見えた。
 そして急に吹いた、涼しげな早朝の風にのって、
八丁味噌の香りが、ふたりのもとにただよってきていた。
Lico_citrus epilogue of 朝めし前の事情
 今朝はたまたま、部活の朝練がないのに、普段どおりの時間に起きていると、
祖母が出て行く気配に気付いた。
 僕は何となく思い立ち、いたずら半分で後をつけた。
 しかしこっそり尾行する見積もりが、
中学で陸上部に入っている僕の足は、
どうしても八十手前の老女の速度に追いついてしまう。
 仕方なく横に並び、たいした言い訳もせず、
「一緒に行っていい」
と聞いてみた。
 祖母は、
「ああ。いいよ」
と、さして疑うことなくそう答えた。
 祖母の足取りは、まっすぐに、最寄り駅の方向へと向かっていた。
 駅は、僕一人で行くと五、六分で到着するはずが、
今日は祖母に合わせて歩いたせいで、10分以上は かかってしまった。
 そして僕らは そのまま地下道をくぐって、駅裏にあるバスロータリーに出た。
 が、そこでも祖母の足はとどまらなかった。
 そのロータリーの二階には、駐輪所が設置されていて、
そこに上る為のむき出しの階段を、
祖母は のそのそと、けれど迷いもなく上り始めた。
 そうして その階段の踊り場に着くと、彼女はつと足を止めた。
Lico_citrus 3 page of 朝めし前の事情
 そういえば一度だけ、
定時である十六分を過ぎても、祖母が戻らない日があった。
「おばあちゃん、帰ってこないよ」
 けれどその日は、
始発電車で起きた、電圧線に小動物が接触するという事故によって、
列車のダイヤが乱れ、
電車利用をしている家族たちは混乱をしていた。
姉は代替経路を逆算して、家を出る時間までわずかしかないことをあせり、
父は父で、
「いつもなら、三両目の車両はすいてるんだが、今日はどこも鮨詰めだな」
と、文句を言うばかりで、
これまで僕以外の家族たちは祖母の帰宅時間に気づいていなかったのか、
一向に皆、彼女を気にかける様子がない。
自転車通学の僕だけが、部屋の時計とテレビ表示の時刻を見比べながら、
気合なくご飯を口に運んでいた。
 しかしそうこうするうち、
いつもより更に十五分程遅れてひょっこり祖母は現れ、
まるで何事もなかったかのように食卓に着き、
用意されていた冷めた濃いみそ汁をすすり始めた。
「おばあちゃん。いつもより遅かったけど、どうしたの?」
僕が聞いても、
「うん、遅かった」
と答えるだけで、一人モソモソと食事を続けていた。
 そして翌日からはまた、それまで通りの、定刻帰宅に戻っていた。
 どうしてあの日だけ、遅かったんだろう。
Lico_citrus 2 page of 朝めし前の事情
「うちのみそ汁って、どうしていつも八丁味噌なの?」
テレビ画面に映る交通情報を何気に見ながら僕は、
調子良くねぎを刻む母の背中に問いかけた。
 僕たち一家の朝食のみそ汁は、薄味が主流の関西圏に住んでおきながら、
僕が幼いころからずっと、味も色も濃厚な八丁味噌を使っている。
「おじいちゃんが、好きだったそうなの」
「おじいちゃんって、僕が生まれる前に死んじゃってるんじゃないの」
 僕は食卓のあるリビングに続く和室の、
仏壇に置かれている祖父の写真に目をやった。
『おじいちゃん』と呼びはすれ、写真立ての中のセピアがかった彼は、
学生服姿で、現在中学生の僕は、もうすぐ写真の祖父の年齢に追いつこうとしていた。
祖母のお腹に父が居るうちに戦争に行き、
それっきり戻らなかったそうなので、
僕どころか父ですら、祖父が生きている様子を知らない。
 母は、僕の質問を気軽に受け流して、こちらに背を向けたまま、
みそ漉し器で濃い色のそれを溶かしていると、
玄関の扉が開いて、
散歩を済ませた祖母が帰ってきたようだった。
いつもどおりの甘辛い香りが漂い、そして祖母の帰宅で、
母との会話はすっかりと途絶え、
いつも通りのおとなしい朝の風景が戻ってきた。
 お年寄りというものはとかく早起きで、かつ規則正しい行動を好むようになるのか、
うちの祖母は、朝食前には必ず近所の散歩を済ませることを、日々の日課としている。
ただ不思議なことがひとつあって、決まって祖母は、
テレビ画面の隅に、七時十六分の表示が出た時に帰ってくる。
時計など持ち歩く習慣の無い祖母が、
どうやって、連日同じ時間に帰宅が出来るのか、
それはずっと僕の謎だった。
Lico_citrus prologue of 朝めし前の事情
〝どうして雨がいいの〟
 〝雨は自由になるから〟
 そう言って彼女は、水を吸った髪を、額からうなじへとかき上げた。
こめかみから垂れた水滴が、彼女の肉の薄い頬を、丁寧になぞっていった。
 スピードを上げるにつれ、僕らを包む雨も、自在に姿を変えてきた。
ダッシュボードも、カセットケースも、シートも、ギアも、
みんな 色っぽく 滴っていた。
辺りの様子が ぼやけたスクリーンになって、
まるで 誰かの夢の中に居るようだった。
 オレンジ色の灯が 僕らの頭上を、勢いよく後ろへ後へと流れていく。
 僕らは どこへ行くつもりだったんだろう。
 別れるつもりだった感じもするし、
ずっと寄り添うつもりだったような 気もする。
 カーブを曲がると急に強い風が入ってきた。
 それが彼女の長い髪を、BGNのメロディに合わせて、
重みをもってウエイブさせた。
乱れた髪を はかない両手で押さえながら、彼女は言った。
 〝この風をとめてほしいの〟
 〝君の為なら何でもするよ〟
 そう言って僕は、右側にハンドルをきった。
 彼女は 僕に横顔を見せたまま、つぶやくように言った。

 〝それなら、私を好きになって〟


 
 
 あれからどうしたんだろう。
 途切れた横顔と、伸びきった歌声と、冷たい飲み物と、満ち足りた雨音と。
 そんな物たちが僕の中で、宙吊り状態になって どんよりただよっている。
 対向車線のアッパーライトが フロントに差し込んできて・・・。
 それからどうしたんだろう。
 あの二本のドリンクは どうなったんだろう。
 彼女は どうしてしまったんだろう。
 そもそも僕は 誰なんだろう。
 もしかしたらそんなこと 全部わかっていて、
ただ 気付かないフリを しているのかもしれないな。
 ズルいんだよな、僕って。
Lico_citrus epilogue of びしょぬれのズル
 二人の間のドリンクホルダーには、ホットコーヒーとレモンスカッシュが、並んでおさまっていた。
 〝こんな寒いのに冷たいものを飲むんだね〟
 〝レモンスカッシュって雨音に似てるもの〟
 彼女は後向きに手を伸ばして、
ルームライトの横にある赤いボタンを押した。
ルーフが静かに開いて、斜めの雨が僕らを濡らし始めた。
 雨はジュース缶のプルトップに当たって、カラカラと滑稽な音をたてた。
そのうち僕の熱い飲み物は、彼女の物と同じ温度になり、
そして二つ同時に薄まっていった。
 〝どうして開けるのさ〟
 〝雨の中を走りたいの〟
 彼女は天を見上げて、ゆっくり瞬きをした。
その姿はまるで、雨音の妖精みたいだった。
徐々にしめっていく横顔が、水っぽくて良かった。
 左手前方に、化学系のコンビナートの灯が見えてきた。
単調な海岸線に、未来都市のように浮かび上がったそれらは、
イルミネーションをそのパイプ群にからませて、
ひっそりそびえたっていた。
そのカラフルな色を横手に感じながら、僕らの車はびしょぬれのまま、
すべるように進んで行った。
 雨のしずくに浸されたドリンクを、
彼女のその光のように白い指が持ち上げた。
そしてそれをゆっくりと口に含んだ。
 〝レモネードみたいよ〟
 〝僕のはアメリカンだ〟
 冷えきったコーヒーの、飲み口に出来た水たまりごと飲み込んで、
僕は答えた。
 彼女が飲むロング缶の、手の平からはみ出したところを、
しずくがたたいて、
軽快な音色がのどの奥へと流れていった。
 カセットテープの具合が悪くて、高音をのばす箇所が、
ゆるいビブレーションになってなびくのが、
この淡いシーンにとてもよくはまっていた。
 
Lico_citrus 2 page of びしょぬれのズル
 雨だから冷たいのか、冬だから寒いのか、よくわからない一日だった。
 〝雨に似合う車が欲しいの〟
 彼女がそう言い、僕はそれを買った。
 サンルーフを開ける音がしなやかで、雨のまぎれそうな流線型の、限りなく透明に近いシルバーグレイ。
貧しい学生のバイト料貯蓄が消えて、十二ヶ月分のローンが残った。
 それでも僕は十分だった。彼女を満足させるためなら。
 二人の出会いは忘れてしまった。
 ずっと遠い過去のような、もしかしたらあの日の前日だったような。
とにかく僕の記憶は、その日から始まって、その日かぎりになっている。
 BGMは懐かしいグループサウンズだった。
 彼女はこのテープを、ボーカルの歌声が、伸びきってかすれる程にまで聞いていた。
 たぶんその日も僕は、下宿前の月極駐車場から車を動かし、
彼女のマンションに向かった。
そして、雨が降っていた。
 はっきり言って雨は好きじゃない。
 けれど、僕にとってのさえない雨は、彼女をいつも魅力的に演出した。
 しっとり潤んだ長い髪も。
 雨に溶けそうなくらい白い肌も。
 触れると壊れそうに薄い肩も。
 まぼろしのようにやわらかい唇も。
 それらすべての輪郭だけが、
透きとおったしずくの中で浮き彫りになる。
 彼女に雨は素敵だ。
 彼女は素敵だ。
 綺麗な彼女が僕は好きだったんだ。
濡れた時間に素敵に輝く、磨きたての宝石のような彼女が好きだった。

 強い雨がフロントガラスを打っていた。
 痛々しい音とカーステレオのメロディがぶつかりあって、
閉ざされた空気の中を充満していた。
 窓の外が暗かったのは雨のせいじゃなく、時間が過ぎていたからで、
僕らはヘッドライトをともして、湾岸線を走った。
時折ワイパーからのぞく光景が、現実を確認させるわずかな手がかりだった。
Lico_citrus prologue of びしょぬれのズル
「・・・もう片付いたかい?」
 母は傘をまとめながらそう言い、濡れた運動靴を窮屈な玄関で脱いで、上がってきた。
そして手提げ鞄から、見慣れた割ぽう着を出して、それを着た。
私の古い記憶の頃から、母はずっとそれを着ていた。
 母はあかぎれした手で、何度も同じ雑巾を絞りなおして、窓枠や棚の上を拭いた。
そして、私が開けた箱の中身を、どんどんと適当な場所に収めていく。
自分の荷物として運び出したものはわずかだったので、
そう大層な手間はかからなかった。
 そうしてほとんどの荷物が片付いて、衣服が濡れないように箱に敷いていたビニル袋を、
背中を丸めて丁寧にたたみなおしていた母が、
「元気ださなきゃ思ってね、母さん奮発してお寿司買ってきたよ。 一緒に食べよう」
と、手提げ鞄から一つの紙包みを取り出して、私に手渡した。
 雨に湿ったその包みには、鉄火巻といなり寿司が入っていた。
 ひさしのトタンを打つ雨音と、寿司がおさまるプラスティックパックの音が、
ふたりの間に心地よく漂う。
魚型の容器から直接垂らした醤油が、ご飯にまでしみたせいだろうか。
なんだか少ししょっぱかった。
Lico_citrus epilogue of 寿司
 しかしその満足はほんの短期間で、夫はその大きな建物内では、
まるで魔法にかかったように口数を減らし、表情の変化も乏しかった。
そこでは三世代が同居していて、大きな住居のためプライベートスペースは確保されていたが、
週に一度は、祖父母の居住箇所にある食堂の大きな食卓に、全員が会し、
夕食を共にするという習慣があった。
豪華な食卓の中央には必ず、バランスよく生けられた花が置かれていた。
母と二人のちゃぶ台にあった、醤油さしも、旨み調味料の小瓶も、そこにはなかった。
 献立は、必ずあつらえの料理人が準備をし、
例えば、小ぶりの桶に入った握り寿司が、時に一人一人の前に並べられ、
その脇には、粘度の高い醤油が小皿に入れて添えられたりしていた。
またその際には、テーブルの中央に、塗りの入れ物に入った酢漬けの生姜が、
トングとともに上品に存在していた。しかしそれには誰も手をつけないので、
花と塗器と、どちらが装飾用なのか、いつも見分けがつかなかった。
『・・・いずれあなたたちにも子どもが生まれたら、オムツは○○社が良いわよ』
『そう。今は紙タイプの方が赤ん坊には良いのよ。あと、おしりナップは・・・』
義母と義姉が、夫ではなく、私に向けてふいにかける言葉に、
空気を乱さぬよう注意深く耳をすませて、差し障りなくうなづくことが精一杯だった日々。
重苦しい晩餐会の中、まるで私は、机の上のガリのような存在だった。
 そしてフルコースのフランス料理の回で、落としてしまったナイフ。
 振り向きもしない夫。ナイフが床にあたる音が、何かの終了の合図に聞こえた。
 結局、義母と義姉のアドバイスを活かせる機会もなく、私は、
自分の持ち物を箱に入れてから夫に言葉をかけ、そこを出た。
Lico_citrus 2 page of 寿司
 ドアを開けると、母が立っていた。
 今朝ようやく、差出人も受取人も自分である荷物が、
間借したてのアパートに、宅配便で複数個届けられた。
昨夜から降り続く雨で、どの箱にも少しずつ水滴が乗っていた。
私はそれらの上部を止めてあるガムテープを、
ただ黙々と、はがしていた最中だった。
 苗字が変わるという体験は、ほんの九ケ月で終わってしまった。
私にとってそれは、どういう期間だったんだろうと思う。
 幼い頃からほとんどの日々を母と二人で過ごし、たまに帰宅する父は、
ただ食事をして、テレビを観たり煙草を吸ったりした後、またどこかに行ってしまう人だった。
母は、昼間は近所のスーパーで漬物のパック詰めの仕事をし、
帰宅をすれば、電気コードをビニタイでひとまとめにする作業を、
ひたすら続けていた。そういうわけで、六畳一間の部屋はいつも、
たくさんの電気コードを入れるコンテナで占領されていた。
身なりを構わず、手先を動かし体を動かし、食費や生活費を工面する。
まるで日々『節約』という枠に縛られながら、生活をしていた母であった気がする。
 小学五年生の時の父の死で、私は、自分たちのポジションが
『もうひとつの家』であったことを知った。
斎場で自身の夫を、肩をすぼめて最末席で見送る母の姿が、
切なく、苦しく、みじめに映った。
 あれから私は、正当な立場と、充分な財産に、憧れを抱くようになり、
そのうちそれが目標となった。
 そしてそれは、達成された。
 相手の人の家は、家族で会社を営んでいた。
風呂が家屋内に三箇所もある、大きな邸宅に住み、陽気で優しい印象の人で、
全ての夢がかなったことで私はとても満足をした。
 
Lico_citrus prologue of 寿司

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