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tano_seana's novels

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 やや濁った海水の遥か向こうに、日本隊さくら基地の見慣れた灯りが目に入った。
「可憐さーん!」
 突然、ヘルメットの中に自分を呼ぶ声がした。
 それは青木啓太の声だった。
 可憐は、啓太とは比較的仲がいい。
 二十五歳の啓太からしてみれば、いちばん年の近い田所美由より、二十八歳の光元可憐の方が話し易いのかも知れない。
「可憐さん、聞こえてる? もう二時間近く連絡がないけど、大丈夫ですかあ?」
 ヘルメット内のマイクに話しかけながら、啓太は光元博士を一人で外に出したことを失敗だと思っていた。
 シャワールームのポンプの修理が忙しかったからだが、可憐の調査目的の撮影だって急を要するものではなかった。
 規定では二人一組での外出が義務づけられていた。
 しかし、ここ数週間変わらぬ環境に人知れずイライラしていたのが事実で、朝には可憐と口論したばかりだった。
 それで、つい彼女を遠ざけるようにしてしまった。
tano_seana 14 page of 渚にて
 子供の頃から魚のように泳いてきたのに、今は心の準備をしてからでないと、共用区の隣のプールさえも見ることができない。
 美由の成長の過程で、水に関するトラウマ的な出来事は何もなかったはずなのに、今は恐怖心が強まる一方だった。

        ◇

 さくら基地を一歩出ると大きな岩棚が広がっていて、百メートルほど行った先は海溝へと落ち込んでいる。
 一本の命綱が海流に圧(お)されるようにして長く伸び、そのロープの先に一人の女が倒れていた。
 どうやら気を失っていたらしい……光元可憐博士はゆっくりと目を開けた。
 眼前を横切ろうとしていた深海魚が反転すると離れていった。
 彼女は堆積層と氷床が交じり合う辺りで横たわっていた。
 両手で自分の体を撫でまわした。
 分厚いグローブを分厚い潜水服にがさごそと這わせた。
 だが、顔に触れようとしたとき、へルメットに遮られた。
 上体を少し起こして、まわりを見た。
 その光景は調査隊員として半年近く暮らした海底そのものに違いなかった。
tano_seana 13 page of 渚にて
「分かりました、外ですね」
 隊長はうなずいた。
「悪いな」
 歩き去っていく杉田の足音を聞きながら、美由は背もたれにもたれ掛かりながらシャープペンシルを指の上で回した。
 二十六歳にもなって、と美由は自戒する。
 十代じゃあるまいし、夢に取り憑いた架空の男に翻弄されている自分が口惜しかった。
 本当に仕事に集中できなくなる。
 もういいかげん、あの夢から離れなければならない。
 これは、同性で同世代の光元博士に相談したほうがいいのかも知れない。
 だが、美由の中のすべてが、赤の他人に自分の夢の中身を語るという考えに異を唱えていた。
 でも、このまま放置するわけにもいかない。
 夢は日ごと激しさ、恐ろしさを増していた。
 昨夜は眠ることを躊躇して、誰もいない通路へ出たときに、壁の向こうの水への恐怖でパニックを起こしそうになった。
 何故なのだろう。
tano_seana 12 page of 渚にて
 仕事にも影響が出ていた。
 集中力が落ちていたのだ。
 そのうちきっと大問題になるわね、このままではと、美由は目元を歪ませた。
 夢の中の男は出てくるごとに違う人物だった。
 なのに、あの瞳だけは同じだった。
 美由のほうも、夢の中で男から様々な名前で呼ばれていたように思う。
 それが美由を悩ませた。
 理解などできるはずもない。
 美由はどの女でもあり、どの女もが一人の美由だった。
 男のほうも、どんな名前だろうと同じ人物だった。
「青木くん!」
 通路の方から啓太を呼び止める杉田の声がして、美由は我に返った。
 塵の塊と化した発泡スチロールの束を抱えた啓太に、杉田が近づいて行った。
「その作業が終わったら、ひとつ頼まれて欲しいんだが」
「はい」
「光元博士の捜索だ」
 真面目顔でいう隊長の顔を見て、啓太は笑いをこらえるようにして下を見た。
tano_seana 11 page of 渚にて
 この夢の中で美由は泣き叫んだが、それはただ肉体的な痛みのせいだけではなかった。
 そこには快感と、満たされた歓び、そしてこれまで知らなかった晴れがましさのせいだった。
 ──これが初めて"彼"から愛されたときのことだ。
 そのとき初めて美由は絶頂感に震えながら目覚め、その甘さ、激しさに寝乱れたベッドで体を丸め、満たしきれない欲望を抱えるように恥じた。
 そう、これが最初だった。
 そして、最後にはならなかった。
 美由はベッドを出てモニターに寄り、そわそわと腕をさすりながら静まりかえった基地の外をながめた。
 本格的な夜明け──溌剌とした陽射し──がそこへ届けば、いまだ漂う不吉な非現実感を消してくれるのだろうが、ここはそんなことを期待できる場所ではない。
 正気を失いつつあったのだろうか。
 これが狂気の始まりで、こうやって徐々に現実感を蝕まれ、
「そのうち夢と現(うつつ)の区別がつかなくなるの?」
 そう思わずにいられなかった。
tano_seana 10 page of 渚にて
 美由は肘をついて体を反らした。
 鼓動が激しく、心臓が肋骨に打ちつける痛みすらあった。
 気を失いそうなのに、近づいてきた男に反応するあまり危機感が遠のくように思えた。
「怖かった」
 率直に述べて、男の敵意をそいだ。
 男の動きが止まり、瞳の煌めきが僅かに後退した。
「困った女だ」男は呟いた。「俺も、おまえも……困ったものだ」
 ついに男は、美由の上半身に被いかぶさってきた。
 美由は視界をさえぎられ、男の顔がはっきりとしない。
 男の手が伸びてきたとき、唇から小さな驚きの悲鳴がもれた。
 熱くざらつく手が裸の脚をゆっくりと這いあがり、男物のTシャツの裾を押しのけていく。
 そういうことね。
 結局はわたしを襲うつもりなのだ。
 辱めとショックで泣き叫ぶと思っているのなら、こっちも抗ってやるわ。勇気ならばわたしにもある。
 思ったとおりだった。男はベッドの上の美由を襲った。
 そこには怒りがあったが、その行為の中に何故か優しさもあった。
tano_seana 9 page of 渚にて
 美由の夢の中で、その男は激怒していた。
 自分を避けようとする美由に腹を立てていた。
 肩に垂れた黒い髪。
 そのひと房ひと房が怒りにのたうつようだった。
 瞳は……。
 ああ、あの瞳が鮮明な漆黒の瞳が、彼女のベッドの上から威圧するかのように貫きとおした。
 美由はじっと横たわったまま、シーツの冷ややかさを痛いほど意識していた。
 けだるい夜の深みの中、美由が着ている薄い男物のTシャツさえ、鬱陶しいほどの暑さに感じて、空調が途切れたのかと耳を澄ましたこともあった。
 そしていつの間にか、暗い寝室に立ちつくす男の──自分を見つめるその視線を意識したとき、男が近づいて来て夜の雷鳴のような野太い声で言った。
「おまえは、俺から逃げようとしたな!」
 怒りにあたりの空気が震えた。
「おまえは俺を弄んだろう。しかも、俺を歯止めがきかないほど興奮させた。それなのに今度は、俺から隠れようというのか!」
 瞳に威圧の輝きが増し、節くれ立った手が喉をめがけて伸びてきた。
tano_seana 8 page of 渚にて
 もみくちゃにされたみたいでパニックとなり、深く考えることも出来なかった。
 たぶん毎回同じ種類の夢なのだろうが、夢に含まれるエピソードはそのときどきで違っていた。
 最初は妙な夢だとしか思わなかった。
 あまりの鮮明さに恐怖を覚えたものの、ただの夢でしかなかった。
 ところが次の夜もその夢を見た。
 さらに、次の夜も。
 以来、欠かさず同じ夢を見るようになり、しまいには眠るのが怖くなった。
 隣の部屋が寝静まるころに通路へ出て、共用区で水を一口飲み干して戻り、目覚ましを早めにセットして夢を出し抜こうともしてみたが、うまくいかなかった。
 目覚ましは鳴った。時間どおりに。
 だが、中断された眠りを借しんでぐずつき、いざ起きようと身がまえたときに、その夢が襲ってきた。
 目覚めが遠のき、意識の世界から滑り落ちるのがわかった。
 そして、鮮烈なイメージに満ちた闇の世界に連れ去られた。
 美由は抗った。
 眠るまいと踏ん張った。
 だが、負けた。
 重くなったまぶたが下がり、ふたたび男が現れた……。
tano_seana 7 page of 渚にて
 美由はモニターに視線を戻した。
 だが、突然の頭痛に顔をしかめた。
 この頭痛は、その頃に美由が見るようになった夢に起因しているように思えてならない。
 名前も顔もはっきりしないが、夢の中に現れるのはいつも同じ男のようだった。
 その瞳は霧の奥から、深く鮮やかな黒蝶真珠の煌(きら)めきを放って、美由を見ていた。
 瞳の切羽詰まった煌めきに恐れをなして、美由はきまって男の腕の中でもがいていた。
 そんな彼女をなだめようと、男は欲望に擦れた声で囁きかける。
 繰り返される愛撫。
 美由の体に歓びが震えとなって走り、伸びあがって応えた。
 二人は入り江から立ちのぼる濃い霧に包まれて見えないが、美由はそこにいる男を感じていた。
 いくら目を凝らそうと、じれったさに声を上げようと、なかなか顔が見えなかった。
 見えるのは熱を帯びた黒蝶真珠の瞳だけ。
 霧の中に光る瞳だけだった……。
 この夢を見ると、必ず体力を奪われた。
 絞りあげられて、骨抜きにされたような疲れだけが残った。
tano_seana 6 page of 渚にて
 日本の資材をもちいて居住施設を造ったが、ロシア隊の居住区とは厚いドアで仕切られ、杉田隊長が定期的に出向く以外にそのドアが開くことはなかった。
 通常は杉田敦彦の部屋のサーバ経由で事が運んでいた。
 プリンターに資料を打ち出したところへ、ちょうど杉田が通りかかって印字されたばかりの用紙を手にした。
 彼はそれを美由に渡しながら訊いた。
「田所くん、光元(みつもと)博士を見なかった?」
「さっき、青木くんと話してる声がしてましたけど」
「あいつは今一人で作業してる」
「あっ」と思い出したように美由は言った。「博士はカメラを抱えてたから、もしかしたらまだプールにいるか、もう出て行ったか……」
 プールとは共用区の隣にあって、その底のハッチを開ければ外へ出入りできるようになっている。
「そうか、また勝手な行動を」と、杉田は苦虫を噛みつぶしたような顔をして見せた。「それは、どのくらい前だ?」
 モニターの画面を見て美由は答えた。
「十五分くらいです」
 杉田は共用区の方向へ出て行った。
tano_seana 5 page of 渚にて

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